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住まいからまちへ

道行く人に軒を貸し、道くさに立ち寄った隣家の人との世間話・・・そんな客人、お向かいさんとのこころ暖まるふれあいのひと時が日々の暮らしの中にちりばめられていた頃・・そうした時代から遠くはなれてわたしたちは、何処まで来てしまったのだろう。現代のめまぐるしい情報社会の果て わたしたちが手に入れたもの そして、見失ったもの いつか見たあの遠い日に置き忘れてしまった「こころの宝物」にもう一度、光をあててみませんか。

自らの未来を見つめ、前向きに歩んでゆく道程のなかでは、どうしようもなく自分以外の様々な事柄を、多かれ少なかれ切捨てながらでなくては、我々は毎日を過ごしてゆくことが出来ないのではないだろうか。

隣人愛、人類愛という精神は、本当に尊いものではあるけれど、少なくとも私自身は、より自己愛のほうに多くを傾けながら社会人として自己実現の道を歩んできたのだった。

少年の頃に感じていた(今やすでに、その気持を明確に蘇らせることすら出来ないが)ある種、限り無いものへの憧憬とか、万人に向けての優しさの感情を、いつのまにか置き去りにし、そしてそのことすらも忘れ去り、遠く大人になってゆく。

愛媛新聞夕刊連載、池田洋三さんによる「忘れかけの街」をいつも心待ちにし、読んでいた頃の、12歳から13歳の僕。
その当時、自分の目に映っていた徐々に都市化してきた松山の街と、記事に描かれている懐かしい街の佇まいとの違いに、何故だかとっても物悲しさを感じ、何物かが失われていってしまっていることへの、やるせない切なさを感じていた「少年の心」。そういう、柔らかな温もりのある愛おしさの気持も、知らず知らずのうちに色あせてしまい、気が付けば35年の月日だけが流れている。

「忘れかけの街」連載からしばらくして出版されていた、当時、愛媛新聞編集委員をされていた佐々木忍さん著「松山有情」を、平成20年の今、46歳の私は、手にしている。(この松山有情もその頃愛媛新聞夕刊に連載されていたそうなのだが、残念ながらこちらのほうは読んでいた記憶がないのである)昭和52年の頃、その著書の中において、佐々木さんが語られていた言葉のひとつひとつが、現在の私の胸を締め付けて止まない。

以下「松山有情」からの引用文章。
「戦災で市の中心部を焼失した松山は、一口に言って“らしさのない松山”になってしまった。人情は気薄になり、心と心との付き合いが出来ない社会となった。世相の荒廃に人の心は砂漠のように乾ききっている。」

古いものを捨て去り、忘れ去り、「物質的な豊かさ」に向かって加速し始めた昭和40年代から50年代にかけての日本の時代に対して、そして、儒教に根ざす倫理感に基づいた、縦と横の繋がりを重んじる村社会的な日常の有り方の煩わしい部分から徐々に目を背け、核家族化の心地よい波を、あるべきこれからのライフスタイルとして、信じきろうとし始めていた多数の日本の人々に対しての警鐘を、静かな語り口で佐々木さんは、粘り強く、鳴らし続けていたのだった。
そして戦前には確かに存在した、下町に生きる人々の触れ合いや人情、それらを育んだ街並の姿が、戦災を免れたことによって戦後にも残された「立花」や、「三津」の界隈に「懐かしさ」を見出され、その街に生き続けていた人々の誇りと優しさを確かめ、次世代に語り継いでゆこうとしたのが、この「松山有情」だったのだと私は思う。

出版から約35年……
私は平成20年現在の、三津・立花を歩き、愕然とする。
佐々木さんが語り継ごうとした風景、風情は、もうそのほとんどが失われてしまっていたのだった。

戦災を免れたがゆえに、松山中心部がほとんど焼け野が原になった戦後間もない復興期は、立花・三津の不死身のバイタリティーが、すべてを失った松山の人々の希望の光であったのだろうし、とりわけ三津地区で連綿と紡がれていた数多くの商家たちの経済の営みが、松山全体の復興への現実的な足がかりともなったのは、紛れもない事実。
佐々木さんも言われたように、三津・立花は、戦後の松山の原点なのだった。

けれども、歴史とは皮肉なもの。
時が流れ、松山中心部の復興がどんどん進むにつれて、人の流れも経済の流れも、周縁の街である「三津」から徐々に松山中心部の「大街道・銀天街・千舟町・所詮お城下界隈」に移行し始める。
また昭和50年以降道路網の整備により、松山市が南へ南へと発展してゆくに従い、立花よりも更に郊外の街、天山・朝生田・石井・砥部等が発展するに従って、立花は、中心部と郊外のベッドタウンを繋ぐ通過点でしかなくなってしまう道程をたどっていった。

戦前、馬車が通るには充分だった旧立花街道も、当時の繁栄ゆえ、びっしりと商家が立ち並んでいた分、戦後の車社会における道路拡張が難しく、道路巾のゆったりとして、街路樹も植栽できる綺麗な歩道も確保された郊外地に比べ、非常に窮屈で不便な街と変わってしまったのである。

昭和52年当時、佐々木さんが松山の街の変貌を憂い始められていた頃、僕はといえば、中学から高校にかけての時期で、あまりにも楽天的に自らの青春を謳歌していた。毎日毎日が新しいものとの出会いで満ち溢れ、この上なく刺激的な悦楽感に包まれていた。とりわけ音楽・映画・小説等、虚構の世界の中での、自己感覚の解放は、生きるエネルギーそのものだった。
中学入学の頃、カーペンターズが大流行、ビートルズの再ブームに伴ない、クイーンを始めとするブリティッシュロックの百花繚乱、日本のミュージックシーンも、荒井由美の登場により、フォークソングからニューミュージックへと以降し、チューリップ・オフコース等が華々しい活躍をし始めた頃。
村上龍が「限り無く透明に近いブルー」で芥川賞を受賞、村上春樹も初期3部作で文壇に登場してきた。TVコマーシャルの業界から日本映画界に大林宣彦がメジャーデビューしたのもこの頃である。歌謡界においては、キャンディーズ・ピンクレディが一世を風靡。クラスの女子たちも大抵は、ピンクレディー(ミーちゃん・ケイちゃん)の振り付けをマスターしていた。男子たちの間では、キャンディーズのランちゃんが一番人気で、圧倒的な支持を得ていたと記憶している。
邦楽洋楽問わず、ダンスミュージックがブームとなってゆき、ビートの利いたグルーブ感溢れる音楽に陶酔してゆく中で、僕自身すっかりと、13歳の頃に夕暮の街を散歩していた、地に足の着いた「静かな心持ち」というものが意識の中から薄らいでいたのだった。

自分達の未来のイメージは、どこまでもエネルギュッシュに拡がり、明るく希望に満ちていた。早く高校生となり、将来は東京の大学に進学し、憧れの的だった映画や音楽関係の分野に進みたいと真剣に夢見ていた。
東京での未来をイメージし始めてしまった青年には、自分を育んでくれたはずの「松山」は、いずれ自分が去ってゆくところ、だから、もう全く感心のないものに変わってしまっていたのだった。
思春期に入っていた当時の僕にとって、ご近所付き合いの煩わしさなど嫌なことだったし、何よりも両親の想いから一日でも早く解放されたかった。恐らく「松山」という街も、自分の「古里」という意味において、両親と同じ存在だったのだろうし、早くそこから抜け出したいと切願する対象であったのだ。

だから、小学6年生の頃から読み始めていた「忘れかけの街」の記憶は、はっきりしているのに、その約2年後くらいに連載されていた「松山有情」を読んでいなかったというのは、極めて象徴的なことかもしれない。
中学入学の頃は日課となっていた自転車での市内散策も、高校受験の頃には全くしなくなっていた。
僕自身ですら、たった中学時代の1、2年の間で、街の風情の変化を感じる感性というものが、跡形もなく消滅していたのだった。

私自身その後迎えることになる10代半ばからの青春時代。
諸事情により、上京することはなかったけれど、自分をめぐる様々な事柄のみで充足し、学生生活を終え、就職してからの20代は、おおよそ社会の制度に己を馴染ませながら、会社組織の中での自己評価を上げることに懸命になり、日に日に仕事に没頭し、30歳を超え、家庭をもってからは、家族愛を実感することに幸福感を感じつつ、言わば狭い世界でのささやかな幸せに満足していたのだった。そうして、毎日毎日の懸命な(自己満足的に)繰り返しの中で、自らが生まれ育って今も暮らしている「この街」が少しずつ変わってきてしまっていたことに気付かぬまま、振り返れば35年という月日が過ぎてしまっていたのだ。

極めて画一的な「例え」かもしれないが、故郷を遠く後にして大きな街で懸命に働き、家庭を築き、その中で自分を産んでくれた両親のことなどすっかり忘れてしまい、子育ても一段落し、本当に久しぶりに故郷の戻ってみると、両親のあまりの老いた様子に愕然としてしまった……と、そんな気分に苛まれてしまった。
今回、三津・立花・道後を散策しながら私はどうしようもない後ろめたさを禁じえなかったのである。

2008年松山、時間・空間の枠組みを超え、様々な形態、様式の溢れる建物たちが混在し、捕らえどころのない街並を形成している飽和状態の姿……仕事の合間、ふと意識が普段着に戻り、少し落ち着いた心持で、いつもは忙しく通り過ぎている我が街を見つめ直した時に感じる無力感。途方に暮れる私。

けれどもそんな状況に於いても、本当にありがたいことに「一筋の光明の如く」の「言葉」との出会いが用意されていたのだ。 現在愛媛新聞に月1回のペースで連載が続いている、野村町出身の建築家で神戸芸術工科大学教授でもある花田佳明氏の「ふるさと伝言」という記事である。
日本人としての魂の奥底に深く根ざしている「懐かしさ」を探求し続けることの叙情性に彩られながら、時空を超えた普遍的な美しさを建築デザインを通じて求道する真摯な実践の道を歩まれている花田教授が、毎朝新聞を手にする私達一般読者に向かって、優しく丁寧な語り口で問い掛けてくれている、心のふるさと探訪記。
教育者として、建築家として、風土と建築に長年弛まず関わりをもってこられて、様々な現場、多種多様な状況の中で、それぞれの現実と、その都度その都度折り合いをつけながら、ご自身の思想を実践してこられている花田氏の勇気ある活動の歩みのその彼方には、愛媛県が生んだ偉大な建築家 松村正恒さんのお姿が浮かび上がってくる。

先人への畏敬の念
昭和30年代から50年代にかけて、日本建築界の中で高い評価を受けながらも、東京を活動の拠点とはせずに、郷土の地、愛媛県八幡浜および松山、に根付きながら、黙々と建築設計の足跡を残されていった松村正恒さん。
その先人の「魂」を、これからの時代を生きてゆく平成生まれの学生たちと向き合いながら、彼らに伝えてゆこうとし続けている花田教授の歩み。精力的な活動の中で、愛媛新聞の連載においては、非常に平易な語り口で、一般読者に向かって、我々の普段の日常生活のあり方を今一度、 振り返ってみませんか、と語りかけてくれている。
混迷極める捉えどころのない社会状況の中で、その記事を読むたびに、月に一度、「大人の正気」を示してくれる、背筋がピンとなる緊張と至福のひととき。

人と人との繋がり、子供と大人の繋がり、過去と未来の繋がり……そのような社会における様々な関係性の中でしか我々は生きてゆけない、というごくごく当たり前のことを(けれども何でも事足りる現代においては、このことすらもついつい忘れがちなのだが)街並の佇まい、人々の所作、というフィルターを通して、毎月淡々と語りかけてくれている「ふるさと伝言」。
花田氏が一環して言われていることは… 価値あるものは、人々の何気ない日常生活の営みの中で、長い時間をかけながら熟成されて、人々の様々な関係性の中で練り上げられ噛み砕かれながら、少しずつ結果的に生み出されてくるものなのだということ。
そしてその根底には、人が相手を気遣う心が、必要不可欠で、長い長い歴史の中、我々は縦の繋がりの中で生かされている… ということなのだ。

行政が近年様々な場所で建設してきた「触れ合い広場」とか「何々集会所」とか呼ばれている、一見口当たりのよい社会福祉性ヒューマニズムを醸し出す公共施設の数々も、ただそれだけでは空しい「箱モノ」にしかすぎないと花田氏は批評する。 逆に、歴史の流れ、時の重みに耐えてきた地元商店街の一見猥雑とした佇まいの中にこれからの時代のコミュニティの再生を図れる可能性があると論じられる。
年増女将がやりくりしている一杯飲み屋、いつの間にかカフェ文化に置いてきぼりにされてしまった鄙びた純喫茶、何年前のものかわからぬ品物がガラスケースに置かれている家電店、年老いたおやじさんが、それでもピシッとした白衣を羽織ってひげそりしてくれる散髪屋、一盛かごがいつも歩道に溢れているおばちゃんたちの溜まり場である八百屋さん、地元人々の憩いの場であるお風呂屋さん、一番風呂から出てきた長老たちが、銭湯の入口脇の縁台で夕涼みをしている和やかな光景。
そういった古びた商店街の何気ない日常の中に、これからの新しい社会のコミュニティを紡いでゆくヒントがあるのではないかということを示唆してくれている。

保存か建替かでこの数年議論が続けられてきた、松村正恒さん設計の、八幡浜市立日土小学校。地元住民、行政、花田氏を始め様々な分野の見識者、多くの方々の度重なる議論の結果、全面的な保存・改修、そして既存校舎に隣接した新築校舎の建設という調和的結論に至った今日までのプロセス。その長かった道のりを振り返り、花田氏はこう結ぶ。
「学校とは、どのような場であるべきかを考えるなら、私は次の時代を担う子供達に対し現在の大人が、次の時代にとって重要だと考える価値観を、授業内容はもちろんのこと、あらゆる点で示す場でなくてはいけないと思う。」
この文章の「学校」を「街並」と置き換えることも可能であろう。
更に、近年の学校建築を初めとする行政が取り組む建物に対して「更地に安易なコンクリート校舎では、子供達に大人の無知と無責任を教えることでしかないだろう。」と、経済優先効率重視の考え方に漬かりきっている、デリカシーを欠いた大人達に対しては、非常に辛辣なコメントも残されている。

花田氏の連載記事を熟読することを通じて、私は次のようなことをひしひしと感じ始めているところだ。
歴史の重みに耐えてきた様々な事柄に、ひとまず真正面から向き合ってみることが始めの一歩ではないかと。そして古いもの達に対して、自分の感情の中で惹かれるものがあるとするならば(懐かしさも含めて)、それは一体どういうことなのであるのかを自分自身の心に向かって対話を試みてみることが大切であると。

今回本誌において「松山リアルライフ」として紹介させてもらった、「20代の今」を生きているフレッシュな感性の若者達が、三津・立花そして柳井町・萱町など、古くからの商店街で、「商い」に取り組んだとしたら、どういう展開になるのだろうかと想像するだけで、私の心はわくわくする。
これまでの時代の風雪に耐え忍んできた、年輪を刻み込んだ「忘れかけの街」の風情と、これからの時代を生きる若者達との共存関係。

そして、このことを、何とも自然に粛々と現実のものとして実践しているコミュニティが、我が松山地区にも存在しているのだ。
旧北条・土手内海岸に集まってきた若者達。室愛彦氏主宰の家具製作工房「タワー」・コウテイ建設 西原哲弘氏運営の賃貸マンション「OCEANS 13」の愉快な住人たち・そして3年前にこの海岸を終の棲家として移住してきた藤田晴彦夫妻を中心に、通称「ドテウチーズ」と呼ばれている彼らが、地元住民の方々と共存しながら、新しい生活の息吹を奏で始めている。その共存関係の日常については、本誌内のエッセイにて藤田晴彦氏が語ってくれているところだ。

さらに、遠く久万高原町に繋がる立花街道とお城下湊町とのバイパスである「柳井町商店街」の再生に取り組む有志たち。
そして、旧松山市内の様々なエリアで、次の時代を担う若い世代の方たちが、様々な取り組みで街起こしの息吹を奏で始めているようである。

自分の生業が一番大事、これは大きな真実。
この基盤をしっかりと築きながら、少しずつ周りのことを感じ始めてゆく少しの勇気。ゆっくりと時間をかけながら、あきらめないこと。 「持続する志」を持ち続けるためには、「志」を理解し、共有してくれる仲間たちの存在が必要不可欠なことは言うまでもない。 気が付けば、そっと寄り添ってくれている隣人の何気ない笑顔は、時として淀みかけてしまう自分の心の波動を、一瞬のうちに清め呼び覚ましてくれる特効薬だ。